ネトゲ廃人になりかけて、危ういところでPROPSの企画に手をつけた頃、このままではまずいと思って、CM(コンストラクション・マネジメント)会社に転職活動を再開しました。ライターの仕事だけで食べていくのは不可能じゃないけどやっぱり大変で、ライターの先輩である平塚桂さんの偉大さが骨身にしみたりもしました。
今ほどCMは普及していませんでしたが、建設業全体の求人は増えていました。ちょうど民主党から自民党への政権交代も起きて、経済的にも盛り上がる気配が見えてきました。リーマンショックや2度の政権交代を経験するなかで、建設投資は社会・経済の流れに大きく左右されるんだなあと実感しました。
公共工事は僕のキャリアの中であまり関わりはありませんでしたが、公共工事の投資額が減ると業界全体の景気が悪くなるし、震災復興やオリンピック関連で設備投資が盛り上がってくると業界全体が忙しくなる。公共も民間も1つの生き物のように一体となって動いているんですよね。一技術者の存在なんて小さいものだと感じるようになりました。
転職活動の場で「営業」して、仕事をもらえるように
転職活動はうまくいったりいかなかったりを繰り返していました。初めて転職した2007〜8年はファンドバブルがちょうど盛り上がってた頃で採用が非常にゆるかったんですが、今回は景気が回復する兆しはあるけれど、以前よりは確実に求人ポストが少ない。それに大学院へ行ったため、履歴書上はキャリアが繋がっていないように見えることもあまりいい印象を与えませんでした。またそのうち海外に行こうとしているのでは、と疑われたりもしました。キャリアに一貫性がないと、普通の採用プロセスでは減点項目になるんですよね。
ただ企業の採用担当者と話をしていると、「これは正社員じゃなければ採ってくれるんじゃないかな」という感触があったんです。この人たちは僕を正社員として雇うにあたって、必要がなくなった時に持て余してしまうことと、採用コストをかけたのにすぐ辞められてしまうことを恐れているんだ、とわかってきた。
僕もそれまで小さい会社にいたし、ファンドバブルでいろんなお客さんが消えていったのを見てきたから、会社って結構はかないものだという実感があった。だから会社にぶら下がる感覚は全くなかったし、お金さえ払ってくれれば正社員という形でなくて全然よかったんです。採用側に目先の仕事があって、自分も目先の仕事をしたいんだったら、その部分だけお互い関係すればいいんじゃないかと思ったんですよね。
そこで途中から方針を変えて、面接の場で「営業」することにしたんです。採否を決める前後や条件を詰める段階で、「社員じゃなくて構いません、お金は日割りでいいので日当をください」と言うことにしました。すると話を聞いてくれる会社がいくつか出てきたんです。社員じゃないなら設計事務所でもいいなと思い、大手設計事務所がプロポーザルで忙しい時に助っ人に行ったりしました。
コツをつかむと簡単に営業できるようになりました。正社員の採用プロセスよりも断然早いですしね。前職でお客さん相手に自分で見積もりを持っていったように、仕事を人工で見積もるような働き方を提案して、いろんな会社に2週間だけ行くとか、週2日で1ヶ月間行くとかするようになりました。そうすると細々やってたライターの仕事もできるし、お金がないときは組織事務所で集中的に働くこともできる。いろんな会社で働くことに慣れてきたこともあって、このまま生きていけそうな気がしました。
転職活動で焦るとロクなことがない
1回目の転職の時にわかったんだけど、やっぱりあせると買い叩かれやすいんです。それで今回は、それで食っていきたい得意分野では絶対に単価を落とさないという方針を頑なに守りました。給料が安かったり、無給で働いて上手くいったら半年後くらいに利益をシェアしよう、みたいな仕事は断りました。そんな目先のお金に飛びつくぐらいだったら、関係ないバイトしてたほうが全然ましなんですよね。
無職の期間が長びくと預金残高に比例してガッツがなくなっていくのはよくわかっていたので、その誘惑に負けないよう頑張りました。あと1〜2ヶ月で貯金がなくなるという時期まで我慢しきって、正直さすがに一歩間違ってたら社会復帰できなかったんじゃないかと思うんですが、あの状態で変な誘いに乗っていたら今もまだ食えないフリーランスのままだったでしょうね。
そのころ山下ピー・エム・コンサルタンツの川原社長から連絡をもらって、会いに行くことになりました。川原さんはPROPSのゲストとして来てもらったり、ライターの仕事で取材させてもらったりしていましたが、接遇を大切にする方で、肩書きのない頃の自分にも分け隔てなく接してもらいました。以前に「会社の本をつくる」みたいな企画の相談に乗っていたのでその件かと思って行ったら、うちで働かないかというお誘いだったんです。
それで2013年3月から、週3日ぐらい山下ピー・エム・コンサルタンツに行くことになりました。今回は長く働くことになりそうで、しばらく続いたぐうたらフリーランス生活もいったん幕を閉じることになりました。
(取材・文 たかぎみ江)